
全国的な寒波の中。風雪はげしい北の町でも、寒さをものとしない空間があった。モデルとの時間調整の間、イメージづくりを兼ねて「寒さ」を撮りに、吹きさらしの海岸で銅像相手にウォームアップしていたとき、雪をけって、旅行者であろうこの少女たちが、屈託無く記念写真のシャッター係を依頼してきた。あまりの元気さと、この寒空の「ナマ足」がケアラシ立つ寒々とした海岸と、薄幸の啄木とのコントラストがおもしろく、出来るだけ元気なポーズにしてくれと、こっちが思わず、彼女たちを撮影することをお願いしてしまった。
この元気なパワーは、この社会に明日の活力をもたらすだろう。たまにはこういうシュチもいいものだと心から思った。
だが、この4人の少女たちの中で、完全にモデルとしての素質がある子が、二人もいるのはなかなか興味深い・・・。
- 2005/12/19(月) 23:39:48|
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人は、「人間」という存在である。
しかも、近代文明においては、少なくとも「女性」は、美しく見られる事を常に是としてきた。
「見られる」事を意識しながら、「見られる」経験を繰り返していくたびに、「女性」は確実に美しくなっていく。
素人モデルであろうと、自然と「オーラ」が出てくるようになると、もう、その人は「撮られる」事になにがしかの楽しさを見いだしている事になる。
カメラの前で、時としてそのエネルギーに思わず負けてしまうことがある。
だが、カメラマンとは、本来はそれでいいのかも知れない。
- 2005/12/19(月) 23:17:28|
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いわゆる「ニコパチ」は芸術写真ではないという意見もある。
しかし、こういう写真を整理していると、とびきりの笑顔に癒される瞬間がある。恋人が時折見せるかけがえのない瞬間のように、それは愛しく儚い瞬間でもある。
そして、その色彩は鮮やかであり、かつ、夢にも似た仄かな色彩の中にそれがある。その微妙な瞬間に、本当の笑顔があるのだ。
そういう瞬間こそ、「芸術」ではないのだろうか。
いずれにしろ、芸術とは底なしなのだ。奇をてらうより、むしろ、出来たものに、いかに「惚れた」かが尺度なのである。
- 2005/12/15(木) 22:48:09|
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「Karuna」とは、仏教で言う「悲れむ(あわれむ)」という意味である。「あわれむ」という日本語は、哀れむ、憐れむという言葉があてはまるが、もし、「悲」という言葉があてはまるのであれば、哀、憐、より「悲」のほうが強い意味を持つのだという。仏教では、「悲」は「かなしい」と呼ばず
「あわれむ」と読むのだ。梵語の「Karuna」は、他人の苦しみを推し量ってこれを救おうとする心が「悲」であり、救う事が「慈」であると定義している。慈は人に楽を与え、悲は苦しみを抜くと言うことである。
「Karuna」は本来、うめくと言う意味がある。長い時間をかけて、この「うめき」をまのあたりにしなければ、本当の意味での慈しみや、「悲(あわれみ)」は情として生まれて来ないのではないだろうか。そこには、人だとか、動物だとかそういった差別は一切無い瞬間のひとときに、ふっと生まれるものなのかも知れない。
- 2005/12/06(火) 23:47:25|
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