伊集院寫眞館サテライト

プロと言うより「一流のアマチュア」になりたい・・。 「視覚=写真」「心情=文章」のコラボこそ、表現の究極と考える。

邂逅

IMG_0013_convert_20080802173206.jpg


「邂逅」とは,思いがけなく出会うと言う意味である。
亀井勝一郎は,読書することを「著者との邂逅である」と言っているが,これに限らず,人生そのものはいわば「邂逅」である。
 なぜならば,この世に生を受けるということ自体が「邂逅」だからである。
われわれは,「思いがけなく」生まれて,思いがけない出会いを繰り返していく事が人生そのものだからである。
 その行く手には,死というこの世とのわかれが必然として待っているが,いつ出会うかは,われわれが人生を送っていく限り,「邂逅」そのものなのである。
  1. 2008/08/02(土) 17:57:55|
  2. フォトエッセイ|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

残像

IMG_0067_convert_20080630172036.jpg


 もう何年も前から、このクレーンは本来の用をなすことなくそこにある。
過去の時代のモニュメントとしてしか今は存在していない。

 昭和という時代
すでに残像としてしか残ることしかなく、それはあとは滅び去る運命をたどるのは自明の理である。
いつまでも残る方がむしろ不自然なことである。

とはいえ、

 残像はどこまでも懐かしく、心温まる。
  1. 2008/06/30(月) 17:30:03|
  2. フォトエッセイ|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

不立文字

IMG_0230.jpg

物事には、言葉という符号では通じきれないところがある。
日本語はその点で「曖昧」を残すことによって、言葉の陳腐化を防ぎ、哲学として「不立文字」を伝えて来たのだ。
 写真にはキャプションが必要か否かはずいぶん意見が分かれる。写真が伝える言葉にならない言葉に徹するか、「言霊」にこだわり、あくまでも言葉の美しさをもって、映像の補足をするかだ。

 ファインダーをいたずらにのぞくことなく、偶然撮る写真も、それはまだ一興である。

写真というものは、イマジネーションの産物だ。写真は写真であってそれ以下でもそれ以上でもないが、それに何らかの「意味」をつけるのは後付けの概念でしかない。それがキャプションだ。
 
 狙って思惑通りとれたものなど何もなく、たまたま撮ったら、こんな意味を感じた・・・。

不立文字の意味が少しだけ垣間見た感じがする。
  1. 2008/03/26(水) 00:20:08|
  2. フォトエッセイ|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:1

冷ややかな不安

 先進国首脳会議(サミット)が、洞爺湖町で開催されることが決まった。
今回のサミット、環境と地球温暖化阻止が大きな目的で、「環境サミット」などと言う呼称で開催され、高橋はるみ知事はその成功に向けて、日々奮闘しておられる。

IMG_0173.jpg


 だが、今回のサミット、はっきり言って快晴かというとそうでもない。確かに陽があたる画面はあるものの、冷ややかに考えれば、明るい光は目の前の小さな光であり、根本的には厚い雲がかかっているというのが、道民の率直な感想であろう。
 道は職員の給与を総務省が心配するほどの過酷な条件でカットしており、而も、健気にがんばってきた約束を簡単に反故にし、最もつらい立場である管理職に最も過酷な条件を餌に、小うるさいクミアイと妥結した。妥結と同時に、知事は早速自らの施政に着手した。

 サミット開催に関わる出費はそういった道職員の怨恨の果てに支払われている。

はっきり言って、サミットなど迷惑千万!
 道職員が低給で甘んじて、それで良かったと思う者はおそらくその見識の低さに後悔するかも知れない。なぜなら、北海道にもう「バブル」は訪れない。消費拡大には財がいる。その財が実は公務員の給料や経費であったのは暗黙の了解だった。

 北海道民の税金は、本州資本が次々と落札、道の資産はどんどん流れ、中央から道へののキックバックはない。 つまらぬ嫉妬は、結局自らの首を絞める結果となる。道職員の質はますます低下するだろう。

 もらい過ぎや某職員団体を牛耳る者や、自らの怠惰を「クミアイの主張」と居直る手合いは成敗、抹殺すべきだが、リスクを真面目に職務にいそしむ者にも平等に負わせるのはよくない。
 特に、共闘していた団体が妥結したのに、違法行為(スト)を支持し、結果、ヘタすると給与カットのリスクを末端に負わせた某教組の執行部の罪は重い。その突入理由が「査定昇級導入反対」というのだからあきれる。
 冷静に考えれば、道職員全体が給与カット、さらに管理職が大リスクを負うなか、一部教員の増給など非現実、現場の不適格教員の給与をカットし一般職に振り分けるのを反対することが、自らの給与をカットしてまで主張するに値することなのか、甚だ疑問である。値するとなれば、某教組は怠け者の味方か、よほどのお人好しである。

 自分の給与を削り、お荷物教員を守るのが正義だとはとうてい思えない。これを進めれば一番リスクを被るのは他ならない子どもたちであろう。某教組の執行部は本気で考えてるのかあえて問いたい。現場の教員は「本部決定」に従うのみだからだ。

 どちらにせよ、そもそもの原因は「見栄」にある。

 空にかかる暗雲に、だれが気づくかだ・・・。 
 
  1. 2008/02/02(土) 00:44:40|
  2. フォトエッセイ|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0

大欲

IMG_2402.jpg


 [大欲とは、小欲に比して欲なきに似たり]

欲とは自らが欲するものであり、そうあれと願いうるものである。その大小があるとはどういう事なのだろう。

 強欲とか、欲深いことが大欲なのだろうかと考えることもできるが、ここで言う欲とは、そのようなレベルの欲を言うことではない。つまり、「願いの対象の大きさ」のレベルの問題を言う。

 人はよく、「自分の幸せ」を願う

 これは欲である。 だが、「人の幸せも合わせて願う」なら、その欲は大きくなる。このようにたとえば自分では想像もしがたいレベル、たとえば世界中の人々の幸せを願うというレベルになれば、最初の自分の幸せなどは「小欲」ということになる。

ところが、弘法大師空海は、それはむしろ大欲であると説く。

 つまり、「自分の幸せ」は本来大欲にいたる一部であって、それは人の幸せあって完遂できるものである。であるから、万物の幸せなくして自らの幸せは成立しないと悟ることである。これはとてつもない大きな欲である。

 いわゆる「小欲」とは、 「自分だけの幸せ」もしくは卑近のみの便宜幸福を図り、そのことによって、自らの利を得て幸を得たいということであり、そこで帰着する極めて小さな規模の欲を言う。

だから、自分の幸せは人の幸せに繋がる事を感じるのであれば、それは即ち大欲であり、本来絶対であるはずの大日如来が、すべてのものに繋がり、人はそのままで仏性を得ることができるという「即身成仏」という考えは、このことで説明がつく。

 「自分の幸せ」とは、「自分のみの幸せ」とは決して言えるものではなく、ある意味自分が幸せになることはすべてのものを幸せにすることになるのだ。という考えにも帰着する。だが、この考えは一歩まちがうと独善にいたる。

 だから、古来の高僧は「不立文字」にこだわったのだ。哲学は言葉に拠るが、真理はそれに拠るものではない。問題は、どのくらい「大きさ」の想像力があるかということなのかも知れない。それが、その人の「生き方」や「ステージ」の大きさにつながる。

 女性に「自分だけを見てもらいたい」と願うのは小欲で、このように、万人にあまねく視線を注ぎ、総じて神々しい表情を見せて欲しいと願うのは「大欲」ということになるだろう。


にほんブログ村 写真ブログへ
  1. 2008/01/13(日) 16:46:28|
  2. フォトエッセイ|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:0
次のページ

伊集院寫麿

07 | 2008/08 | 09
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks

Archives

Category

Links

Search