
自己の存在(身体)は宇宙・大自然そのものであり、大自然の光明(恩寵)により、我々は生かされて生きている。これを「尽有光明」ともという。
つまりは、我々にとって、この世界のありとあらゆるものは、如何なるものであろうと親密な関係で無いものは何一つない。
常に全ては自己の全身であり、誰でも尽十方界真実を生きている。
一つの写真を作るには、モデルとカメラマンとの作品における関係性の良し悪しによって、作品の質が変化する。
つまり、ひとつの写真には写すもの撮されるものの分別は本来的にはない。ということであり、表情は変化し、その一瞬一瞬は全く同じものを撮ることは不可能なことである。
ところが、カメラも被写体も、そこに彼我としてただある。
この二つがさまざまな「状況」において、極端に言えば一人のモデルであっても複雑な何通りもの顔や表情を見せる。
一枚一枚の写真はまるで別人で、
一人のモデルですらこんなにちがう顔をするものである。
ただ、その違いは私たち自身の作りだした「こころ」にあり、分別をくりかえす。
撮したもの、撮されたものは、ただ、そこにあり、映した映されたの関係以外 何もなく、撮すもの撮される事実だけがそこにある。
しかし、その分別ふくめて、そのことすべてがないと、一枚の「写真」は成立しない。 だから何か一つ欠けてもそれそのものがない。
写真一つで、こんなにも世界を考察することが出来る。このことが、尽十方界真実の妙味である。
- 2009/04/22(水) 19:08:46|
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大乗とは「大きな乗り物」という意味である。
仏教で言えば、自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とする。
大乗の乗り物は、この世における一切のものがそれに乗るものである。つまりは、正しい心のあり方(真如)は、この世に存在する限り、草一本に至るまで、すべてのものに存在(一切悉有仏性)し、光り輝いているのだという。
そうなると、禅問答には「犬のようなものにも仏性があるのか」という問いに「無い」という答えがある。
それはどういう事かというと、この大乗は、今言った心のありのままの姿(心真如相)の他に、この心が諸々の現象の生滅する因となる、特性(相)と機能(用)とでできている(心生滅因縁相)ものだから、生滅のはからいに気づかない犬のようなものは本来の自分に気づくことが出来ない。したがって、
犬には仏性がないというのだ。
人は、たとえば苦しみがあったとき、それを避けたいと思い、あがく。しかし、それは決して無くなるものではないから、心のはからい(心生滅)によってそれを制することはできるものである。
こうして、人はこの大きな乗り物に、すべてのものと共に乗っていくのだ。
- 2009/01/26(月) 16:04:13|
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子どもの頃、1年はすごく長かった・・。
誰もがそう思うのではないだろうか
で、年齢を重ねるごとに、1年の長さは短く感じるようになる
これも、誰もが思うことだ。
これにはわけがある。
人生の配分というヤツだ。
1年は、5才の子どもにとっては、人生の5分の1
30才の大人にとっては30分の1
1年の長さの人生における配分が、大人と子どもではちがうというわけだ。
ところが、
楽しい時間は早く進み、つらい時間は長く感じるという・・。
子どもの方が生きるのがつらい・・・
そういうことなのか?
- 2008/11/19(水) 22:42:19|
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自性清浄とは、人はそもそも汚れた存在ではないという考え方である。
真言密教の重要な経典である「理趣経」には、この自性清浄に基づき「人間の営みはすべからく本来が清浄である」という理念をその冒頭の「大楽の門」において、「十七清浄句」という句偈にまとめている。
そのはじめの句、「妙適清浄句是菩薩位」とある。直訳すれば、男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。ということである。このあと、異性に欲望をもったり、ワガママな気持ちをもったりなどの俗臭い人の行いもすべからく清浄である。と17の偈にうたっているのだ。
額面通り受け止めるなら、仏典としては危険きわまりなく、これを根拠に数々の邪教も生まれたと聞く。
かの最澄も、空海にこの理趣経の解説書である「理趣釈教」を借りようとして断られた。その理由は、経文のみの解釈ではこの十七清浄句は邪に理解されてしまう事を恐れたともいう。十数年も山で修行に明け暮れた空海と、エリート秀才の最澄では、「体得」「習得」の違いが歴然とある。
ここでのイシューとなりうるものは、性や欲の肯定ではなく、人間の営みそのものの肯定である。どのような風体や結果様相であっても、「人の営み」であったなら、それは清浄なものであるというだけで、「行為そのもの」が清浄であるというわけではない.。
行為や結果がいかに汚れたものであろうが、そもそもが、人の純粋な営みから生まれた行為であるなら、人はそのままで清浄なのであるから、どのようなことでも清浄であるというすさまじいまでの「大肯定」の覚悟がそこにある。それは、人は生きながら即仏であるという深遠な仏教の定義が言葉を超越してそこにある。
人は、人より発するものは肯定されるが、行為より後付けされるものは決してそれにあらずということである。この境地には、なかなかなれるものではない。が、決して難しいことでもないだろう。美しいものは素直に美しいと感じることは、決して悪いことではない。それは言葉を超えた「感覚」なのだからもうどうしようもないのだ。
- 2008/10/08(水) 16:18:31|
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